学校の歴史

History

昭和二十一年(一九四六)といえば、終戦の余燼が未だ消えず、社会は荒廃し混乱している時であった。 空襲下の戦時中を、逃げおののきながら通学していた少年生徒らに、自由にのびのびとした気持で、しかも 親の膝元で勉学できる学校を市民の誰しもが欲求していた時であった。さらに進学希望者は漸増の傾向にあ る時でもあった。
ようやく世論も熟したので、当時の勝干城市長は勇断をもって市会の協賛を経て、自ら校長事務取扱と なり、昭和二十一年三月に設立認可を得た。そのころ当時県立沼津中学校教頭であり、後に名校長としてう たわれた石内直太郎を校長に迎えて四月二十日に開校し、ここに「市立沼津第一中学校」は創立された。 場 所は現在の金岡中学校(旧沼津海軍工廠青年学校)で、生徒は二四〇名であった。しかし、校舎・教室・施設は荒廃がはなはだしく、当時はその修理すべき材料などの入手難、また資金難の最も激しい時であり、 校地は食糧難による農地解放の問題ともからみ、家側との紛争もしばしばおきた。
かかる勢下においても、熱意と努力をもって苦難を克服しつつ教育効果をあげてきたが、ここに一つの難関に直面するに至った。すなわち六・三・三制の実施と高等学校への昇格、通学区の配置などである。前者についていえば、昭和二十三年三月に新学制に基く高等学校に昇格することを決定し、 四月より「沼津市立沼津高等学校」として、新たに第一回入学生を迎え、三年生は併設中学校の生徒として残った。同県立沼津東高校が旧校地に再建された新校舎に移ったので、同年六月に本校はその跡に移り、着々校舎内外の整備をした。なお二十六年十二月、それまで同居していた市立第一中学校が丸子町の新校舎に移転したので、以来この校舎は本校の専用となった。 高校昇格前の旧制中学三年生は併設中学校に収容していたが、二十四年三月に最初で最後の卒業生となり、この時をもって併設中学校は廃止された。
昭和二十五年四月から公立学校の学区制の施行に伴い、本校はいわゆる学区のない高校のために、市立高としての存続が危ぶまれた。しかし監督官庁と折衝の結果、私立学校法に従って「学校法人沼津高等学校」を設立して、 学区の制限にとらわれず自由な教育を目ざして再発足することになり、法制定後、最初の学校法人として理事長に時の塩谷沼津市長を推し、 設立認可を受け内容の充実を図った。 翌二十六年は創立五周年に相当するので本格的環境整備に着手 し、生徒職員の手により校門の建設や前庭の庭園化を図るとともに特別 教室の拡張をおこなった。
私立高制度満二ヵ年にして、昭和二十七年四月に至り、市当局の要望 市議会の決議により、本校経営を再び市に移管することに決定し、学 校法人を解散して「沼津市立沼津高等学校」の設立認可を得て、当初の 姿にかえることになった。これと同時に商業科を設置し、普通科と一体 となって新しい教科課程をとり注目された。また二十七年度から奨学制 を実施 学力人物優秀な生徒で経済的理由で高等学校へ進学できな い者に対し、進学の機会を与えてきたが、これまた本校の特色として期 待されている。
昭和二十九年七月には、わが国最初の編板式建築により、総建坪二百六坪・収容人員千名の体育館兼講堂 が新設され、その特異な構造と偉容は世人の注目をひいた。さらに三十一年四月に創立十周年を迎え、同年秋 には記念行事を繰りひろげた。その一つとして、同年十月に百八十坪の編板式武道場を建設し、剣道・柔 道・レスリング・フェンシングなどの練習や生徒のクラブ活動に使用している。特筆すべきものは弓道部の 活躍で、高校の全国制覇はもちろん、一般男子の大会に出場して全国優勝を遂げた輝かしい記録を持ってい る。 野球部は昭和三十二年の春、 甲子園の選抜高校野球大会に出場した。 本校創立以来多大の功績を残した石内校長は昭和三十二年八月八日惜しくも逝去したが、そのあとにのこった教師達の薫陶を受けた生徒は校訓の「求道の精神」を胸に各方面に活躍している。 創立以来幾多の苦難 を乗り越え、職員生徒父兄の堅い結束と熱により、今や揺ぎない基礎に立ち輝かしい前途を期待されている。
(沼津市誌 下巻より)
玄関正面求道の碑

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体育館

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